詩18 意思統一

人が世の中を浄化する そんな世界になるといいな

今まで人は 汚くなる側だった

でもそれって 何か変じゃない?

もっときれいになるために わざと汚れを知るんだよ


世の中がきれいになったら もっと多くのきれいが住める

人以外の種族も住めるし 神々だって夢じゃない

魔法だって使えたら それはもう万々

デモね心が汚く成れば またつかえなくなるんだよ?


は〜や〜くこ〜いこ〜い うちゅう〜じ〜ん〜〜〜〜〜



テイルズオブゼスティリアの地上浄化における哲学と宇宙的関係について

■これはなに?
あくまでも私の宇宙的な話ですが、テイルズオブゼスティリアは、
地球の地上の奥深く、その底にある、地底を舞台にしたお話だと解釈してます。
「地表上の穢れが多くなりすぎてしまったものを、ファンタジーの世界観でどのように間接的に浄化するか」
が、その世界観の最も重要なテーマだったように思います。
ここでは、アニメやゲームの世界を超えて、少し宇宙的に、
ゲームやアニメと私たちの現実世界(地上)との関係性について、少しだけ私の知見を語りたいと思います。


■魂の浄化のついて
人間の心はそんなにきれいに保つのはなかなか難しく、たまには欲だって出るし、
誰かの甘い誘惑に誘われて、自我を見失ったりします。
そういう、人生の停滞や、欲望の泥沼、魂の意志と反することをし続ける、という意味で、
ゼスティリアの世界では「穢れ(けがれ)」と呼んでいたのだと思います。


地上にはドラゴンはいませんし、ましてや天族(ここでは神仏や悪霊など、様々な霊の総評とします)なんて目に見えません。
一部の霊能力の高い人は「目に見える」とも言いますが、流石に人と同じ形で見える人はごくまれでしょう。
地上の人間が穢れた場合、どのようにして対処するのか。
それは、今までは地道な説得や、停滞や欲望を受け入れて、その害を自ら背負うことで反省させ、
自分とその欲や怠惰、異なる意識などを自分から切り離すことにより、行うしかありませんでした。
(よくスピリチュアルな世界では、これを魂の浄化とか、自己からの分離といいます)


でも、そういう人たちがあまりに増えすぎたため、もっと大掛かりな、しかも万人受けしやすい、
新しいタイプの浄化媒体が必要になってきました。
それが、日本ではよくムーブメントになる、アニメやゲームによる浄化です。


■アニメやゲームの役割
アニメやゲームの利点は、その世界にいる登場人物を、自分と切り離して観察できることにより、
「自分の感情と、その登場人物との感情を、別のものとして解釈できる」ことです。
もし、自分に同じような感情が抱かれた場合、現実世界(地上)では、それが誰のものなのか、なかなか判別が難しいです。
日本人はすぐ自分のせいにしたがりますし、もしかすると他の人のせいだと責任転嫁をしてしまうかもしれません。


ですが、もし自分と同じ類の感情を、他の別世界の登場人物たちで描かれると、人は安心します。
「自分だけではなかったんだ」と。
そういう人たちの姿形を通じて、現実世界(地上)のだれにも邪魔されず、
自分もその感情に一緒に浸ったり、味わい尽くして、「もういいや」と手放すことができるかもしれません。


ただし、アニメやゲームの世界にも、限界はあります。それは、「現実世界とは違う理を持つ」ということ。
いくら穢れをドラゴンや災禍の顕主(さいかのけんしゅ:災いの元凶という意味。いわゆる責任転嫁ですね)のせいにしても、
現実ではそんな存在いませんし、仮にいたことにしても、最終的には自分に反省の火の粉が降りかかってくるでしょう。
アニメやゲームは、あくまでも登場人物への感情移入を図り、自分の感情を消化できる手段となる、架空の物語の指針を提供しているだけです。
現実世界を、アニメやゲームの世界のようにとらえてしまっては、苦労するのも目に見えています。(経験談有)


■現実への活かし方
しかし、アニメやゲームの世界の話をフィクションとわきまえて、現実世界(地上)との相乗効果を図るのであれば、話は別です。
例えば、地上には存在していない、ドラゴンや災禍の顕主が、「地上の穢れを吸い取ってくれている」と考えれば、
なるほど、その世界も私たちの世界にも役に立つ、と思える人もいるのではないでしょうか。
物質的な効果はともかくとして、精神的な効果は、すでにアニメを見ている人から「心が浄化された」という声からも、みて取れます。
実質的な効果が得られるのであれば、その世界が存在しているかどうかなど、問題ではないのですね。


ゲームやアニメという媒体は、私たちにその世界に浸る経験を与えてくれるだけでなく、
間接的に、私たちの現実世界(地上)に影響を及ぼしているのではないかと、私は考えます。
現に、もう日本という国の文化は、アニメやゲーム無しでは語れなくなってきている。
アニメやゲームのキャラに恋していたり、憧れていたりしている人も、たくさんいます。


現実世界(地上)の社会には興味がないのに、そちらの世界には興味がある人もいる。
なのに、その人は現実世界で生きている。
これはどういう意図なのでしょうか。
私が考えるに、それは「異文化交流」であって、「架空の出来事」としてしまうには、少々惜しいような気もします。


■フィクションとノンフィクションの普遍的関係
フィクションとはつくり話という意味ですが、ノンフィクションというのは実際にあったことという意味です。
しかし、フィクションはノンフィクションの体験から作られます。
これは何を意味しているかというと、フィクションは、実際にあったことを、より分かりやすい形で、
加工したり改変したり、もしくはその人の想像力で補ったりして、新しく作り変えた、「新しいお話」ということです。


これが何を意味しているかというと、宇宙的に言ってしまえば、新しい世界の創造活動です。
「新しいお話」は「新しい世界ができた」と同義ととっても差し支えないと私は思います。


■誰もが物語を描くことで、新しい世界を想像している
例えば、誰もが一度はなりたいと思った、「世界の創造主」に自分がなったことをイメージしてみてください。
それは、この地球上でなくとも構いません。ツクールの中でも、ブロックの中でも、絵本の中でも構いません。
なんなら、紙とペンを用意して書いた、物語の世界の中でも構いません。
そうして書いた物語は、ほんとうに、あなた自身のものでしょうか?
物語として書いた時点で、その登場人物は意志を持ち、あなたと異なる意思をもって、世界に羽ばたいていると思います。
あなたが、「閉じ込め」さえしなければ。


そういう関係性を考えると、フィクションによってつくられた世界は、私たちにとっては新しい世界であり、
遠い思いをはせる、別世界なのかもしれません。
今は行き来はできませんが、そのうち、夢や魔法や転送器具で、行き来できるようになるかもしれません。
そういうのを今から夢見て、自分の好きな世界をつくっていく人生も、地球人としては悪くないのかもしれない‥と、私は思っています。


■さいごに
テイルズオブゼスティリアは、はじめはゲームとして発売され、ユーザさんから散々な酷評を経て、生まれ変わりました。
今に至るまで、ゼスティリアで感動したというユーザさんはあまり見ず、口うるさい批評や不満の声が多くみられました。
ですが、その悲劇(あくまでもゲームの中での話ですが)を糧に、新しく世界を再構築し、ユーザさんの懸念を浄化し、
最後は「よかった」といわれるくらいまで、アニメとして成長した姿を私たちに見せてくれました。
まるで、ゲームをした人たちの現実に起きた心の悲劇を、アニメで塗り替えたような形です。
おそらく、ゲームもまた塗り替えられ、続きを見せてくれるような予感がしています。
アニメやゲームというものは、人をこれほどまで癒すのです。


その健気な想いと、世界のありように、驚きを隠せないばかりか、どこか「地球上も似たようなところがあるな‥」と思ったのは、私だけではないはず。
ゲームやアニメは何度も見れますし作れますが、現実世界(地上)は一度きりの人生です。
悔いのないよう、どんどん自分を変えていって、世の中をよくしていけければいいな、と思います。


おあり。